「開化」した霧社の先住民反亂
山地先住民の抵抗の最後を飾る大反亂に、一九三〇年の霧社事件がある。戦前は「秘」扱いでその存在が知られず、戦後は台北の國立中央図書館に一冊だけのこっていた台灣軍司令部編刊『昭和五年台灣蕃地霧社事件史』が現在は復刻刊行され、膨大な著書である戴國編著の『台灣霧社蜂起事件 研究と資料』も出版されて、事件の全容を容易に知ることができるようになった。事件の概要は、台灣軍司令部編の資料復刻版に付した向山寛夫の「解説」によれば、次のとおりである。
理蕃の成果が大いに挙がり、首狩りも昔語りになりかけた一九三〇年(昭和五年)の一〇月二七日に突如として、蕃地では最も文明開化した台中州能高郡の霧社で六蕃社の高砂族一、二三七名の壯丁約三○○名が、マヘボ蕃社のモーナ・ルダオ頭目の指揮の下に大規模な蜂起をおこない、各地の警察官吏駐在所を焼き討ちして警察官とその家族など在住日本人二二七名のうち一三四名を殺害し、その多くを馘首した。
霧社事件と稱される高砂族の蜂起は、直ちに出動した飛行隊を含む軍隊一、三〇三名と武裝警官隊六六八名の地上と空中からの攻撃により月余にして鎮圧された。軍隊と武裝警官隊は、戦死者ニ八名、戦傷者二九名、合計五七名の犠牲者を出し、反抗高砂族は、人口の約半數の六四四名が男女、老幼の別なく被弾、殺害、自殺などで死亡した。
以上が、戴國の編著書のいう霧社蜂起事件であり、同書は、これにたいして復讐心を癒しがたい警察當局が「味方蕃」をそそのかして、蜂起生き殘りの「保護蕃」を襲撃・殺戮させた第二霧仕事件と、二つの段階を設けて考察している。その結果、蜂起六蕃社の高砂族一二三七名のうち蜂起事件後の生存者は五六一名であったが、第二霧社事件直後の生存者は二九八名に激減した。
それにしても、「それまで日本の植民地當局によって『蕃界』中最も『開化』していて、豊かで、教育水準も高いと折紙をつけられていた」(戴國)地域の山地先住民がなぜ大挙して組織的な反亂に踏み切ったのであろうか。戴國の編著書のなかで小島麗逸が挙げている、原因の大きな一つが橫斷道路の建設である。
山地先住民の大規模な武力制圧を終えたあと、総督府は、"樟脳帝國主義"の必然の帰結として山地橫斷道路の建設に著手した。一九一九年に、八通関越え橫斷道路(一二八キロ)および南投~花蓮港間(一六二キロ)の建設に著手した。現在の東西橫貫公路の路線とちがい、霧社からほぼ真東に中央山系を登り、奇萊主(チューライチュー)山南峰(三三五七メートル)と能高(ノンカオ)山(三二六一メートル)のあいだの能高越えで峠を越え、ムークワシーの渓谷沿いに真っすぐに西に下って銅門に達し、花蓮にいたる道路である。この道路は未完成のまま放棄されたが、道路建設の労働力に動員されたのが山地先住民であった。
小島は具体的な統計數字を示して、最初の討伐における投降の際に義務化された、建設工事出役の延べ人數・年間一人當り出役日數・一日賃金を示したのち、しめくくっている。「山地資本主義化の過程は一つの戦爭であったことが知られる。しかも、既存社會を根こそぎ洗い流すほどの過程であったことが知られる。さらに、新しい一大格差構造をつくりつつ進行したことが知られる。『戦爭』の熾烈(しれつ)さ、それに伴う日本人への憎悪の累積がほかでもない霧社蜂起を惹起した最大な遠因となったのは指摘するまでもあるまい」と。「開化」のすすんだところほど、舊態依然とした「生蕃」政策との矛盾に苦しめられ、ついにその生存を賭けた蜂起に踏み切らざるをえなかったのである。
(『日本植民地探訪』大江志乃夫著,新潮選書,1998)
※Macの方、文中の「戴國」のは「火」へんに「軍」という字です。
設問
一世紀以上も前に日本がやったことをみて、私達はどう考えたらよいのでしょうか。
「なぜそこまで暗いことを出すのか。自虐である。」
「私達に直接責任はない。だからすまなかったという気持ちは起きない。」
「過去の事実に対して、中國(台灣)や韓國・朝鮮の反日、糾弾の動きに反発を感じる」
とかいう考え方もあるでしょう。こうしたことにどう思われますか。匿名でけっこうですから、自由に感想・意見などお寄せください。
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